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長崎、原爆の日と平和を想う。

こんにちは!

北海道帯広市でネイルサロン&スクールを運営しております、

E-ori’s5 NAILPRODUCE(イオリズファイブネイルプロデュース)です。

 

 

 

オリンピックはやっと念願切望していた男子柔道金メダルが出て、体操男子団体も金メダルと、

盛り上がっている今日ですが、

長崎では原爆の日を迎えましたね。

 

本当は今朝早くに、帯広神社隣にある護国神社に参拝に行こうと思っていたのですが、すごい大雨で断念しました。

 

でも、戦争と平和を考える1日にしよう、と思いました。

世界各国の選手とスポーツで技を競い合う事ができる、それこそが平和でなければ行えないので、このオリンピック期間中の広島・長崎の原爆の日ともうすぐ来る終戦の日はいつもと違う気持ちです。

 

 

長崎ですが、実は学生の時の修学旅行で平和資料館を訪れた事が最初で、当時「広島の方も行ってみたいな」と思って遠い広島にいつか行ける日が来るのかと思っていたのですが、今となっては広島ばかり訪れています。

学生の時の私はまさか長崎より広島に多く訪問する事になるなんて思わなかったと思います。

 

怒りの広島

祈りの長崎、

と表現されている事もあるようで、広島は被災した当時の建物を残し後世にも原子爆弾の恐ろしさを伝えていく方法を、

長崎は象徴となる物は全て取り壊されて残さなかった事で、戦争のシンボル的な建築物がないので、原爆の印象が薄らいでしまっていると言います。

 

また長崎の平和資料館を訪れたいなぁと思いますね。

学生の時の印象とはまた違う感想を持つと思うので、ゆっくり時間をかけて廻りたいと思います。

 

そういうわけでして、長崎について書けないので、5年前に、これまたずっと行きたかった同じ九州鹿児島の知覧の知覧特攻平和会館へ行きましたのでその事を書いてみようと思います。

 

 

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知覧へ入ると町のウェルカムボードに”平和”の文字を入れて歓迎してくれました。

 

 

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沢山の方が訪れていました。

 

駐車場に車を置き、資料館に入るまでに銅像やゼロ戦の模型なども敷地内に展示されていて、ゼロ戦など戦闘機は外の景色と相まってことさら当時の様子を想像しやすくしています。

 

 

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突撃前まで寝起きして過ごしていた兵舎も見れます。

 

 

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お国の為にとは言え、我が息子たちを送らざるをえなかった当時のお母さんたちの心境はいかばかりか。

 

その想いをしたためた碑文は目頭を熱くさせます。

 

 

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こちらは母の像の近くにある特攻で若くして死んでいった若き兵士たちの想いを代弁されて碑文にしたためられていました。

 

 

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そしてこちらは映画「俺は、君のためにこそ死にに行く」にも登場した戦闘機だそう。

 

写真はその時のキャストの皆さんですが当時もこのように若く無邪気な笑顔が、明日の日本を想い家族を想って溢れていたのかと思うと、日本人として戦争を起こさない為はもちろんですがそれ以上に、彼らの想いを時間の中に風化させてはいけないと思えてなりません。

 

資料館は、今こんな達筆な綺麗な字と文章を書く若者がいるのかと思うほどの絶筆が収められいるのですが、

とにかく泣けて泣けてハンカチではなく、タオルをもって入館する事をおススメ致します。

 

当時の事をブログにしているのでこちらも併せてお読み下さい⇒

 『鹿児島 知覧特攻平和会館 ~Vol1~』

『鹿児島 知覧特攻平和会館 ~Vol2~』

『鹿児島 知覧特攻平和会館 ~最終話~』

 

 

 

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知覧特攻平和会館の駐車場近くには若き特攻兵たちを見送ってきた方の茶屋がありますので、そちらもぜひ一緒に訪ねてほしいです。

 

 

そして九州繋がりと、沖縄の海に散った特攻の若き兵士という繋がりで、2年前に家族で行った沖縄の平和の礎でのお話も。

 

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糸満市摩文仁にある平和の礎です。

私も2年前に初めて行きました。

平和の礎は沖縄平和記念公園内にあるのですが、礎が出来てから訪れたのは初めてで感動でした。

 

沖縄戦などで亡くなられた全ての方々のお名前を刻んでいるという事ですのですごい数の方々のお名前が記されています。

各都道府県や各市町村、国籍別で分けられているのですが、私達も親戚の方のお名前を探すのに大変でした。

 

 

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”広場の中央には「平和の火」が灯されています。この「平和の火」は、沖縄戦最初の上陸地である座間味村阿嘉島において採取した火と被爆地広島市の「平和の灯」及び長崎市の「誓いの火」から分けていただいた火を合火し、1991年から灯しつづけた火を、1995年6月23日の「慰霊の日」にここに移し、灯したものです。”

と関係機関でご紹介されていました。

 

長崎と広島と沖縄戦終焉の地と、結びつきがあるんですね。

 

 

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礎の向こうはホエールウォッチングも見られる綺麗な太平洋を望む事ができるロケーションですが、

戦時中はここは、海が沢山のアメリカ艦船で埋め尽くされ、雨あられと容赦なく降り注ぐ艦砲の攻撃でこの一帯は地形が変わったそうです。

 

この断崖絶壁を海側に降りると、今でも焼けて黒く煤が残る岩などが見れますし、今でも手榴弾や薬莢、遺留品やお遺骨が見つかります。

 

この一帯でいまだ陽の目を見られないお遺骨をせめて明るい場所へ出してあげたいとお遺骨収集をされている関係者の方が、

「ここは地形も変えられたし火炎放射器やブルドーザーで片っ端から身を潜める場所さえ奪われてしまうほどの攻撃を受けたから、

生き残った方の話ではあるはずの壕が見つからないんだよね」と仰っていました。

 

この一帯はまだまだ沢山のお遺骨が埋もれているのかもしれません。

そういう意味でもここは強大な霊域ではないかな、と思います。

 

摩文仁はその美しさと悲しさが共存する不思議な場所なので、美しい沖縄らしさを感じるほど悲しさがこみ上げてきます。

 

いつか元旦の初日の出をここで見たいと思います。

どこで見るより、私はこの地で新しい年の幕開けをご先祖達の御霊と共に迎えてその1年の平和と安泰を願う事は、とても大きい意味と強い願いが込められるような気がします。

 

過去にこちらの事を書いたブログも併せてお読みください。⇒ 『島根&沖縄旅行 ~沖縄3日目~』

 

今日も平和の祭典オリンピックを楽しみたいと思います!

 

Posted at 2016年08月09日 18時59分16秒

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