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沖縄慰霊の日.

こんにちは!

北海道帯広市でネイルサロン&スクールを運営しております、

E-ori’s5 NAILPRODUCE(イオリズファイブネイルプロデュース)です。

 

 

 

 

6/23は、沖縄慰霊の日です。

今日は少し長い文と、ショッキングな映像や写真を掲載しますが、皆様と共に歩む時代、日本について、そこに繋がる、

沖縄について少し考えてほしいと思い、沖縄戦の事を書きます。

 

今日は、史上類をみない激しい地上戦が繰り広げられた沖縄戦が、組織的戦闘が終結したと日として制定された日で、沖縄県内の企業や学校は休日となっています。

 

このブログには度々、ネイルや美容とは違うジャンルの記事を挙げていますが、毎年6/23前後には大体、沖縄戦について、大東亜戦争について、その時の私の心境を書いていたりしてきました。

 

昨日から沖縄では慰霊の日の前夜祭が始まっていると報道されていましたね。

 

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本日は安倍総理大臣や沖縄県知事が出席して、毎年恒例の慰霊祭が執り行われたようです。

 

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戦後74年、激戦地だった糸満市摩文仁丘の平和記念公園の平和の礎前には、戦争を知らない世代と戦火を生き延びた人が自分達の親族の名前の前に花を手向け、飲み物やお供え物をして手を合わせています。

 

 

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大東亜戦争から74年が経ちますと、あの沖縄戦を語れる体験者は殆どいらっしゃらなくなります。

いなくなるという事は、悲惨さを知る方がいなくなり、戦争の恐ろしさを知らない為に今あるこの平和を守れなくなる時代が来る危険性があるという事です。

 

どんなに語り部さん達のお話を残し、それをずっと聞く機会が保てられても、

映画や映像でその惨劇を知る術は残っているとしても、

体験者の方々の胸の奥底にある真の恐怖体験や生きる事の苦しさを知る事はできないと思うのです。

 

沖縄戦の体験者の手記に、「真っ暗のガマ(洞窟)には多くの人が逃げこんでいたはずですが、アメリカ兵に気付かれまいとみんな声を潜めていました。

真っ暗でも亡くなっている方がいるのが分かるんです。

臭いなどはもう慣れてしまい分からなくなっていましたが、ウジ虫の遺体を這う音だけが、暗いガマに響いていたからです」という内容や、

「ガマ(洞窟)の奥深くに逃げ込み、見つからないように必死でした。すぐ近くも見えない暗闇でした。その中で幼い我が子が息絶えた事を知りました。あまりにも暗い空間は、我が子の姿も消し去り、私は悲しまずにすみました」という方も。

このお母さんは、幼子の遺体を「すぐ行くからね」と泣く泣くそのガマに置き、次の逃げ場所を求めて移動したそうです。

 

戦争は亡骸さえも弔ってあげられないのです。

それよりもお遺骨さえ遺族のもとに帰って来る事、更にはどこでどうして死んだのか、いつ死んだのかさえも分からないのです。

 

 

 

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写真は5年前の夏に撮った、沖縄戦終結の地、摩文仁丘です。

今日は中央の三角錐に火が灯されているのでしょうか。

 

 

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このどこまでも続く沖縄の青い海一体は、当時アメリカ軍の艦砲が海を埋め尽くすほどいて、雨あられの如く艦砲射撃を降らせたそうです。

その為、この摩文仁の沿岸の地形は変わったそうです。

 

先日、広島県出身で広島で平和学習ガイドのボランティア活動をしている知人が、沖縄のラジオ局のFM読谷に出演しましたので、良かったらご覧下さい。

 

 

 

そして、ずっと沖縄戦で亡くなった方のお遺骨を収骨する活動を続けている方のブログもご紹介致します。

 

【南部戦跡に膝をつきて】

 

今日は沖縄県の方も、県外の方も、

沖縄で起きた事とせず、我が国の平和の為に考えてみませんか。

 

大東亜戦争の映画は全て目を通しているわけではありませんが、大体、「かっこよく潔く散りゆく・英霊」としているように思えます。

もちろん、今の平和な日本があるのは多くの方の犠牲の元にある事は重々承知をしています。

ですが、悲惨なんですよ、戦争って。前線を戦っている兵士の心境って、考えた事がありますか?

 

私がこれまで観た戦争映画は、

●日本のいちばん長い日

●男たちの大和/YAMATO

●俺は、君のためにこそ死ににいく

●永遠の0

●戦場のメリークリスマス

●ビルマの竪琴

●父親たちの星条旗

●硫黄島からの手紙

などあります。

どれも、逞しい男たちの戦い、というイメージなんですよね。

 

それをある時、ザパシフィック、という映画で吐き気を催すほどの戦争映画を見てから、戦争とはこういうものなんだ、と私は理解しました。

撮影とはいえ緊迫感漂う最前線を、あれだけ表現されているのはすごいと思うと同時に、現実はあれ以上なのかもと震える思いがしました。

 

ザパシフィックはこちらからご覧頂けます。

動画の中で沖縄のお母さんがアメリカ兵に「赤ちゃんだけは助けて」と子供を受け取ってと懇願するそのお腹に、同じ日本人の兵士に爆弾を括り付けられているという、胸糞悪くなる内容です。

同胞なはずなのに、囮に使わされる弱い立場の民間人。

こんな事、あるはずがない、過剰演出だ、と思いながらも、私も昔は「内地の人はひじゅる~(冷たい人)だから」と聞かされていた事を思い出しました。

戦時中は、守ってくれるために来てくれたはずの日本兵が、

沖縄県民を盾に、時には直接手をかけられて…という事は、あちこちにあったという事です。

 

でも、その日本兵も満州から引き揚げてすぐの帰還兵で、疲労を癒す暇もなく激戦地に行かされたのですからね、精神が病むに決まっていますよね。

日本兵は非情だった、という裏には疲労困憊した日本兵の苦しい状況があったわけです。

 

今日の慰霊の日では、辺野古の埋め立てについても言及されたとか。

私の意見ですが、沖縄から基地を無くした時、隣国の脅威から日本だけの自衛力でどれだけ抑止できるのだろうと疑問があるのです。

最近もロシアや中国が海や空の領空領海を侵犯しているというニュースがありました。

戦争って、自国の抑止力に努める事はもちろんですが、友好国との関係強化も大切なのではと思うのです。

大東亜戦争を起こす事になった理由を考えてみた時、日本が戦争を起こさざるを得ないようにする他国の力が働き、日本はその糸に絡んでいった、そんな気がするのです。

抑止力の為の軍事力と友好国との関係で、(その関係の保ち方には少々の物言いはありますが)大東亜戦争から74年間、日本は戦争を起こす事なく平和を保つ事ができたのではないかと考えます。

 

辺野古の埋め立て計画は、豊かな自然の山原の山を削り、その土砂で海を埋め立てて、その海域に生息していたジュゴンも最近最後の1頭とみられる死骸が見つかりましたよね。

 

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辺野古沿岸には、個体A・B・Cと3頭のジュゴンの生息が確認されていたそうです。

そのうちの個体Bが今年の3月に漁港に打ち上げられていたのだそうです。

個体AとCは、人間の行いに嫌気がさしてか住処を変えたのかもしれません。

そして辺野古の海が好きで残ったBは、体中に傷を負った状態で死んでしまったわけです。

 

辺野古の埋め立て計画は、正しいのか私には分かりません。

ただ、国と沖縄の軋轢が生んでしまった結果なのかと思ってしまいます。

誰も悲しまずに平和を担保する方法はないのでしょうか。

 

私は爆弾が近くで炸裂してそれが死因となった方の頭蓋骨を見た事があります。

戦後、風雨にさらされたそのお遺骨は苔が付着し、周りの草木と同化していて、もしそこにお遺骨があると言われないと分からないくらいになっていました。

どんな思いでその場所まで辿り着いて亡くなっていったのか。

人知れず弔われる事もなく、忘れ去られたように佇んでいたそのお遺骨の方も、家族があり生きて笑っていた事もあったのです。

悲しいですよね。

 

戦後74年の間、平和に過ごせていると思っていましたが、まだ犠牲になる者がいた事実、

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沖縄のシンガーcoccoが、12年前にジュゴンが帰ってきた事に想いを述べているライブがとても胸を打ちます。

まさか、12年後に傷だらけで死骸が見つかる事になると、当時のcoccoは思いもしなかったでしょう。

 

 

今日は、沖縄に思いを馳せてみて下さい。

皆の想いや考えで、この国の行く先を明るく照らしますように!

 

長文をお読み頂き、ありがとうございました☆

Posted at 2019年06月23日 17時33分06秒

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